まだキャモメの声も聞こえていない。
 ここが光の入らない部屋だった。そのため、レティシアに時間を把握することが困難なことだったが、恐らく夜空け前といったところか。

 この船で何かが起こっているのは確かなのだが、彼女は水槽の外には出ようとは思わなかった。
 第一にこの水槽はとても大きいし高さもある。自分の力だけで出ようと身を乗り出すとそのまま床に叩きつけられるのだ、当然ながらかなり痛い。今までいろんな水槽に入れられてきたけれど、この水槽が一番大きいし頑丈だろう。
 第二に水槽は船底に作られているため、「何かが起こっている」と思われる甲板に出るには長い階段を上らなければならない。
 足腰が非常に弱い彼女にとってそれは何よりも苦痛であり、その「何か」に対する好奇心がそれらの苦痛に対する恐怖心を上回らないと、行動しようとは思わないのだ。
 そして、第三に……そんな嫌な思いをしなくとも、何が起こっているのかはすぐにレティシアの知ることとなる。

 何故ならば、この騒ぎを起こしている犯人はどうせここへやってくるからだ。
 今までだってそうだったのだ、彼女はここで待っていればいい。
 やって来たその犯人は、きっと嬉々として彼女を新しい船に運び、またこの水槽と似たような大きな水槽を船大工に作らせ、綺麗な宝石や服を街で買い込み彼女に与える。
 そして夜になると彼女を水槽から出し、自分の部屋へ連れ込んで好き放題に楽しむ。

 そうやって訪れた新しい生活も、最初の数日間は新鮮だけれどまた退屈な日々に逆戻り。

 そうこう考えているあいだに、船内は静かになった。
 今日はいつもより早かった。とても早かった、最初の怒声から五分も経っていないのにもう「終わった」ようだ。
 今回はどんな男がここへ来るのだろうかと彼女は水面から顔を出した。この船の船長のような、太った男だろうか。芋虫みたいな指と大樽のような腹が見苦しい、嫌な男だった。
 その前の男は年齢は五十を過ぎたくらいだったが、もっと細くて話し方も丁寧だった。でも夜は陰湿で、なかなか気持ち悪い男だった。
 今回の男よりも見た目がましだったら運が良いと開き直ろう、耳を澄ませていると案の定足音が聞こえた。きっと一人分、とてもゆっくりと階段を降りてきている。この船の船長は毎回階段を転げ落ちているのではないかと思うほど騒々しかったから、きっと当たりだわ。彼女は新しい自分の所有者の姿を見ようと、身を乗り出した。

 錆びたドアノブがガチャリと音を立て、この海賊船を襲った襲撃者が現れた。

「……おや、これはこれは」
「…………」
 滅多なことでは驚かなくなった彼女も、さすがに目を丸くする。
 薄暗い部屋に入ってきたのは若い男だった。背は高そうだがとても細身で、細い首を傾げるとさらさらの髪が少し揺れた。
「気配で非戦闘員だとはわかりましたが、まさかこんなお嬢さんだったとは……それも、人魚ですか」
 微笑んだ男はラプラスだ。見たことはあるがなかなか珍しい種族、額の水色の角は以前見たラプラスと違って角先の丸みが無かった。ラプラスは水槽の前まで歩いてくると、彼女を見上げる。

 美しい男だった。
 美しいラプラスの男は不適な笑みを浮かべて彼女に話しかけた。
「好きでその中にいる、わけではないでしょう?」
「うん」
 彼女は即座に頷く。
「出してあげましょうか?」
「うん」
 男は彼女の期待したセリフを口にする。彼は微笑んだまま長い腕を差し出した。
 迷うことなく彼女は水槽から身を乗り出す。下半身が普通の人とは違うので、顔に似合わず重量があることを失念していた彼女は眼下の男を押しつぶしてしまうかもしれないという心配が頭を過ぎった。
 だがそんな心配をよそに、男は涼しい顔のまま彼女を抱きとめると、そのまま階段を上り始めた。
「ねぇ、重くない?」
「重くありませんよ、足下がふらついているのは久々に目が覚めたからです」
「?」
 彼がふらふらしているとは思わないが、何を言っているのかよくわからなくて首を傾げる。自分を見上げる彼女に気付いた男は、また微笑んだ。

 甲板に辿り着いた時には懐かしい臭いにも気付いていた。
 むせかえるような鉄錆の臭い、生魚よりも生臭い、潮風に混じったそれは常人ならば嘔吐するほどの悪臭に違いないが彼女は慣れていた。

 しかし、違和感に気付く。

 寒い。

「いないとは思いますが、この中に貴方のお友達がいたんだとしたら謝らなければならないですね」

 朝日に照らされたのは、ガーネットの花。
 甲板のあちこちに咲いた赤い宝石だった。
 いや、贈り物の中に混じっていた水晶が一番近い。赤い水晶、深紅の水晶、太陽に照らされて無数の真っ赤な水晶がキラキラと輝いている。
 彼女は瞬いた、今まで見たどんな光景よりも美しい──

 だが──もしも、ここに「まとも」な神経の持ち主がいれば──間違い無く発狂していただろう。
 それらの美しいガーネットの花の根本にあるのは「死体」だった。
 深紅の水晶はこの船の船員である、海賊たちの口から飛び出している。暴力的な力で開かれたために裂けた口とおぞましい表情、限界まで開かれた目、美しい水晶の根本に倒れている海賊はどれも変わり果てた姿となっていた。

「どうやったの? どうやったら水晶ができるの?」
 変わり果てた海賊たちは確かに彼女の視界に入ったはずなのに、彼女は男を見上げて声を弾ませた。
 男は少しだけ目を見開くが、すぐにまた笑顔に戻る。
「あれは水晶ではありませんよ。氷柱(つらら)です、体内の血液を凍らせて中から突き破らせたんですよ」
「? よくわからないけど、すごく綺麗」
「ふふ……綺麗ですか、そうですね。私は横着者ですし、ラプラスは鈍足ですし……動きたくないだけだったんですけど、貴方が綺麗だと言うなら綺麗なんでしょうね」
 なんだか褒められた気がして、彼女は嬉しくなる。
「私、降りられるわ。足にもなるのよ」
 水中でなければ彼女の尾びれは二本の足になる、男はそれを見届けると彼女をゆっくりと降ろした。

「この船に用があったわけではないので、私は船から降りますが……貴方はどうしますか?」

 待ち望んでいた自由は呆気なく訪れた。
 もう彼女を縛るものは何もない。一度この大海原に出れば彼女を捕まえるのは困難だ、ずっと会いたかった家族にも会えるかもしれない。場所はわからないけど、探しに行くことができる。
 彼女はちょっとだけ悩んだ。
 ちょっとだけ悩んで、そして男を見上げた。

「私も一緒に行ったら駄目? 私、もう何年もずっと海賊船に捕まってたから外の世界のことをよく知らないの」
「おや、そうですか。ふふ……では一緒に行きますか。可愛い人魚のお嬢さん、私はスキュラ──貴方の名前を教えてくれますか?」
「私はレティシア、レシィって呼んで、スキュラ様!」
 スキュラは首を傾げる。
「呼び捨てでいいですよ?」
「ううん、スキュラ様! ふふ、だってむかし絵本で読んだもの、えらい人にはさまを付けるのよ!」
 退屈な囚われの日々の終わり、新しく始まる生活はきっと素晴らしい。海はこんなにも綺麗だっただろうか、太陽はこんなにも眩しかっただろうか?
 レティシアは嬉しくなって、歌い始めた。

 赤い水晶が煌めく甲板でくるくる踊りながら歌うレティシアを見つめながら、スキュラも歌い始める。
 それはレティシアの歌声とは違い、美しいがどこか不気味な歌声だった。



スキュラとレティシアの出会いのようなもの。
恐らく、自宅最強の水タイプと自宅最弱の水タイプ。

タイトルのお題お借りしました

Discolo

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